「小説家になろう」というサイトが楽しくて、ぶっ続けで見ている。
「ウロボロス・レコード」、
「ゼロから始める異世界生活」、
「この世界がゲームだと俺だけが知っている」、
「蜘蛛ですが、なにか」。
どうやら本になって売っているらしいのだが、ただで読めるのをいいことに、ただただ面白がって消化している。
どのように消費しているかというと、触ったら痛いくらいに、つまり栗のイガのように、これらの作品は娯楽に突出したつくりをしているので、痛いと分かっているのに触ってしまって「なにこれいたいー!」って手を引っ込めながら、それが快感になって手を出したり引っ込めたりしているうちに、痛覚があいまいになって、最終的に飽きる、という読み方をしている。
そいうのを 「異世界転生ハーレム無双モノ」というらしい。
小説を読むのは面白い。
今回の底本は「アイルランド短篇選」より、「ミスター・シング」をお送りします。

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ミスター・シング / ブライアン・フリール
(Mr Sing My Heart's Delight,by Brian Friel)
毎年、元旦にぼくは汽車、郵便車、最後は徒歩という具合に45マイルを旅して、ドニゴール州にある祖母の家に行った。その家はマラハダフ教区のどんづまり、荒れ狂う大西洋の上にそびえる崖の上にあった。この恒例の滞在は、毎年一月から夜が短くなり始める三月まで、主として祖母のためを思ってのことだった。というのはこの期間、祖父は一年の残りを乗り切る収入を得るためにスコットランドへ出稼ぎに行っていたからである。しかしそれはぼくにも好都合だった。学校に行かなくて済んだし、厳しい両親ややっかいな弟や妹たちから離れていられた。何より祖母の家ではぼくがお山の大将で、何をやっても許された。
家は祖父母が寝起きする一部屋だけの造りだった。おおきな部屋に小さな窓が一つだけで、ドアは一日じゅう開けっ放しだった。家が東向きで、風はいつも西から吹いていたからである。部屋には、三脚の椅子、テーブル、隅にベッド、箪笥(たんす)、それから生活の中心であるマントルピースのついた平炉があった。ほとんど何もない簡素な部屋の中ではマントルピースが一際(ひときわ)目立った。両端には陶器の犬が鎮座して、真ん中には輝く銀の目覚まし時計、二つの花瓶、中身の水銀がこぼれてしまった、ひびの入った温度計を抱えている真鍮(しんちゅう)の妖精、競馬のカラー写真の入った金色の写真立て、クレープペーパーで覆った三箱のマッチの上にのせられた三つのウニの殻が並んでいた。祖母の家に毎年行くだびに、ぼくはそれらを手渡してもらって、しげしげと眺めて値踏みした。ぼくが気に入っていたので、祖母にとってもそれらの品はますます貴重な宝となった。
祖母は小柄でふっくらしていた。若い頃は小粋(こいき)で綺麗な娘だったに違いない。彼女はいつも黒い服を着ていた。ブーツにウールの靴下に上着、その見苦しい黒い上着も、洗い過ぎと干し過ぎで灰色になりかけていた。しかし首から上はびっくりするほどの色彩の取り合わせだった。白髪、海のような青い瞳、日焼けした生き生きとして艶(つや)のある顔。嬉しいことがあると、祖母は長い巻毛のおしゃまな子供のように頭を左右に振る癖があった。当時すでに60歳は過ぎていたが、その半分の年齢の女性のように生き生きしていた。ぼくが疲れているときや怠けているときには、牛小屋までかけっこしようとか、引き潮の岩場を遠くまで行ってみろとけしかけた。そんなとき、ぼくは母がよく言っていた言葉をまねて、祖母に「おばあちゃんは本当にそそっかしいアホな婆さんだね」と言ったものである。
夏の一番恵まれた日でもマラハダフは寒々とした土地だ。辺りは草木も生えない、でこぼこの岩だらけで、茶色のヒースだけが一面を覆い、岩を穿(うが)つ幅30センチにも満たない小川が無数に流れている。小川は思い思いの方向へ勝手に流れているが、巧妙にも互いに交わることはない。祖母の家は一番近い街道から3マイル離れた荒野の、人も通わぬ一番どんづまりにある。辺鄙(へんぴ)なところに家を造ったものだが、祖父という人は陰気で寡黙な男だった。父親のわからない私生児を生んだ17歳の娘と結婚してやることで十分な慈善心を示したつもりだったのだろう。祖母も彼のプロポーズを受けざるを得なかった。あるいは祖母の生き生きとした魅力に嫉妬して、背後には大西洋、前方には3マイルの荒野という土地が彼女のうわついた心を抑えるとでも考えたのかもしれない。動機はどうであれ、それはうまくいって、祖母は世界からすっかり切り離されて、ぼくが13歳になってまもなく祖母が死んだとき、祖母が一生のうちで出かけた最も遠いところは52マイル離れたストラバンの町だった。祖母と結婚する月の前に彼女の私生児、つまりぼくの母との関係で法的手続きをするためにそこまで出かけたのだった。
ぼくと祖母は大いに楽しんだ。共に笑い、また互いを嗤(わら)った(笑いの種だったのは祖母の英語だった。ゲール語が彼女の母語で英語にはなじんでいなかったので、英語を話すときはそれが邪魔物であるかのように、叫んだり吐き出したりした)。ぼくたちは真夜中近くまでおしゃべりと噂話をして起きていた。ベッドに行かずに、突然バターでニシンを揚げたり、真っ赤な石炭でイカナゴを焼いたり、翌日の食事のための野鴨を食べたりした。またあるときは、炉端に座ってぼくが教科書の読本から物語を読んで聞かせた。祖母は読み書きができなかった。彼女は一言も聞き漏らすまいと耳を傾けた。よく分からない箇所はぼくに再読させたり、時には中断させて細部について質問した。
「バスに乗ったことはあるの? 人を乗せる本物のバスに。」
「一度だけあるよ」
「どんなふうだった? 胃に悪くないかしら。」
ぼくが読み終えると彼女はぼくに向かって復唱する(「わたし、ちゃんと理解しているかしら」)。特に灯台守の娘の冒険とか、キュリー夫人やナイチンゲールの名場面を好んで復唱した。しかし外界についての知識欲はあっという間に消えて、急に立ち上がると言った。「ちくしょう、忘れるところだった!」祖母がこの罵(ののし)り言葉を使っても少しも嫌な感じはなかった。今にして思えば、祖母は同時代の女性の会話をめったに耳にしたことがなかったからだろう。「崖下の岩場まで走れば、岬の先端にノルウェーの漁船が見えるよ。急いで、急いで! 晴れた晩にはなかなかの見ものよ。」
マラハダフの突端には、ぼくを楽しませてくれる、世にいうような既成の娯楽はない。でも祖母は自分の苦労は顧みずに、ぼくの滞在を楽しいものにしてくれた。ぼくたちはよく夜明け前に起きて、大西洋の氷のように冷たい上空を雁が渡っていくのを眺めた。またあるときは、サバの群れのいる油を流したような海面を回避してしてからサバに襲いかかるサメたちを一目見ようと、家の下の平らな岩に何時間も座っていた。またある時は浅瀬に膝まで入った。足の裏にカレイが潜り込むとなんともいえないスリルを覚え、目をつぶってから両手を入れてカレイをつかみ出した。これらの小さな探検は、ぼくを楽しませるために祖母が考え出してくれたものであることは今にしてみれば明らかだ。しかし冒険が始まると、ぼくに負けず劣らず祖母も心から楽しんでいたことも確かだ。
「あら、私の足の下にいるのはカレイじゃなくて子牛だわ。」彼女は青い瞳を喜びで輝かせて不安そうに悲鳴をあげている。「こっちへ来てわたしの腕を押さえて!」
スパンコールのようにキラキラ光っている大西洋航路の客船を見るために、家の裏手の地面が盛り上がって瘤(こぶ)のようになっているところに立っていると、祖母はぼくに向かって陽気で呑気(のんき)な乗客のリストを読み上げる。「紳士に淑女。英雄のようにハンサムで背筋の伸びた男性たちと、爪先まで明るい絹に包まれた淑女。みんな、笑ったり、踊ったり、お酒を飲んだり、歌ったりしているのよ。あー、みんな幸せな老いた船荷!」
二月になってから海から強風が吹きつけてくる夕方、行商人が風と闘いながらぼくたちの家にやってきた。台所の窓から眺めていると、風に向かって体をへし曲げている泥炭地の潅木(かんぼく)のように見えた。だんだん近づいてくるとはっきり人の姿になり、しばらくすると身の丈の半分はありそうなダンボールの箱を背負っているのが分かった。ドアの前まで来ると白人ではないことが分かった。当時、アイルランドの辺鄙な土地では行商人は珍しくなかった。彼らは、包みや箱を持って家々をまわって歩いた。中には衣服、靴下、シーツ類、テーブルクロス、安物の派手な装身具などが詰まっていた。客が選んだ品に払う現金がない場合は、行商人は家禽(かきん)や魚を代価として喜んで受け取った。評判では、彼らはなかなか抜け目がなくて信用ならないとも言われていた。
この行商人はぼくを恐れさせた。母親から行商人には気をつけろと言われていたし、有色の行商人を見たのは初めてだったから。ぼくは祖母を窓まで連れていって、背後から覗いていた。
「襲われるかな?」ぼくは泣き出しそうな声で聞いた。
「何言ってんの。わたしは負けないわよ!」
祖母は勇敢にもそう言って、ドアを開けた。「入りなさい」彼女は強風に向かって怒鳴った。「入って休みなさい。今日、ここまで登ってくるのはあんたみたいなお馬鹿さんだけで、山羊(やぎ)だってこないわよ。」
男は大きな箱を引っ張りながら後ろ向きに台所に入ってきた。彼は戸口に置いてあった椅子に倒れ込むように座り、頭を壁にもたせかけた。せわしなく息を切らしてあえいでいたために、口をきくことができなかった。それほどまでに疲れていたのだ。
ぼくは一歩近づいて男をよく観察した。20歳そこそこの若い男だ。滑らかなハシバミ色をした肌は彼の顔にぴったりだ。頭には包帯のように真っ白なターバンが巻かれている。肩幅は狭く、体格は貧弱で、ほころびたズボンは草露で濡れていた。足はぼくの妹のように小さかった。次にぼくは手を見た。ほっそりと繊細で、指先には新鮮な海草のようにつやつやとしたピンクの爪が見えた。左の中指には指輪があった。それは蛇の形をした金(きん)の指輪で、頭と尾の間に暗紫色の宝石がはまっていた。眺めていると、それは瓶の中の煙のようにのったりと動いて七変化した。最初は紫、次にバラ色、と思うと今度は黒、真っ赤、青、それから八月のリンボクの実の色に変わった。この奇跡に見とれていると、行商人は床に膝をついて低音の、祈りをあげるような声で言った。「わたしはうーつーくーしいものを売っています、奥さん。あなたのうーつーくーしい家を飾るものなんでもあります。何を買います? リーネン、シルク、シーツ、壁に掛けるうーつーくーしい絵ですか? 奥さんのうーつーくーしいカーディガンですか? 何を買います?」
そう言いながら行商人は箱の中身を全部出して見せた。床は黄色、緑、白、青に塗られたようだった。特にどれか一つを勧めるというのではなく、自己満足のように全部を陳列した。それも当然かもしれない。世界のあらゆる財宝を持っているのだから!
「あなた買う、奥さん? なに買う?」彼は丸暗記したまま、関心も熱意もなく暗唱した。あまりに疲れていて気を遣う力もなかったのだろう。彼は床を見つめたまま両手で自分のまわりに多彩な品物を広げた。男はまるで湖の真ん中の島のようになった。
しばらく祖母は口をつぐんでいた。彼女は品物に目が眩(くら)んだようになっていただけでなく、男が言うことを一言も聞き漏らすまいと必死に聞き耳を立てていたのである。男の発音は祖母には難しかった。ついに言葉が戻ってきたとき、それは叫び声のように噴出した。
「おー、まーあ、見てごらん! 見てごらん! 神様、こんな物があるなんて!」それからぼくに向かって「この人はなんて言っているの? なんて言っているのか教えて!」次に行商人に向かって「ミスター、わたしはあまり英語できません。あー、ミスター、すごい宝ですね、ほんとにすごい!」
彼女は男のそばの床にペタリと座り込んで、祝福するように商品の上に両手を広げた。それから両手を下げて指先で衣服の表面に軽く触れた。彼女は畏れの気持ちに圧倒されて口を開けたまま黙っていた。両目だけが恍惚として光っていた。
「奥さん、着てみて下さい。試着して下さい。」
祖母は正しく聞き取れたかどうか自信がなくて、ぼくのほうを見た。
「おばあちゃんの好きなの着てみて。さあ、早く」ぼくが言った。
彼女は行商人の顔を、ほんとうにいいのかしら、というふうに探った。
「わたし、お金ないのよ。」
彼女の言葉を聞かなかったかのように行商人は品物をあれこれ並べ替えていた。無意識に仕事の流儀を続けていた。
「試して下さい。ぜんぶ、うーつーくーしい。」
祖母はそれを選んでよいのか、少しためらった。
「さあさあ」男はせかすように言った。「急いで!」
「ぜんぶ、よい奥さんと家庭のための品です」かれは床に向かってつぶやくように言った。「試着して下さい。」
祖母は餌に舞い降りてむさぼり食べる鳥のように身をかがめた。それを見下ろし、どう似合うかしらという表情でぼくたちのほうを見た。顎の下にそれを押さえて、撫(な)でつけ、空(あ)いたほうの手で顔にかかる髪の毛を本能的に後ろへ払った。それからぼくたちの判決を待ってじっとしていた。
「うーつーくーしい」行商人は自動的に呟(つぶや)いた。
「美しい」ぼくが言った。はやく試着して、おしまいにしてほしかった。
それから祖母は急に立ち上がって、見上げるぼくらのまわりを踊り狂うように飛び跳ねた。「すごい!」祖母は叫んだ。「あなたたちと同じようにわたしも頭がおかしくなったと思うでしょうね。見て! 見て! こんなに綺麗でお城のお姫様みたい!」
堰(せき)が切れたように祖母は夢中になった。ブラウスを床に投げ出すと、次は黄色のモヘアのストールをつかんで肩に回し、自分の歌に合わせてショーを演じた。それから緑の帽子、白い手袋、青のカーディガン、彩り豊かなエプロンを身につけた。その間、歌ったり、踊ったり、腕を振り回したり、気が狂ったように頭を振り、喜び、当惑し、楽しさに酔いしれて、すっかり我を忘れたかのようだった。
衣類の半分も試さないうちに、年寄の悲しさ、道化もおしまいになった。彼女はすっかり疲れ切ってベッドの上に体を投げ出すと、ぐったりしてしまった。「さあ、ミスター、品物を片づけてね。わたしはお金がないんだから。」
「行商人は相変わらず彼女の言うことを聞かず、ものうげに品物を並べ替えていた。改まった口調で彼が言った。「これいかがです、奥様。」彼は真鍮の二脚の燭台に触れた。「うーつーくーしい、安いです。とてもとても安いです。」祖母は手を振って断った。
「お金ないの、ミスター。」
「こちらはいかがです。聖なる救い主のうーつーくーしい絵です。あなたにはお安くしておきますよ、奥様。」
彼女は目を閉じ、手首を振った。元気を奮い起こしているようだった。
「素晴らしいですよ。」男の手は今度は模造皮の小箱に触れた。中には六本のアポスル・スプーンが入っていた。「これはたくさん売れます。みんな気に入ります。数が足りないくらいです。」男の口調は少し怪しかった。「半値にしておきましょう。」
「だまりなさい!」彼女は突然、噛みつくように言った。ベッドの上にピンと跳ね起きて、男が発散していた無気力を払いのけた。「おだまり! わたしたち、この土地の者は貧しいのよ! おだまり!」
行商人はさらに俯(うつむ)いて商品を自分のほうにかき集め始めた。辺りは暗くなっていた。彼は箱の留め金を手探りした。 祖母は怒鳴ったことをすぐに後悔した。彼女はベッドから飛びおりると泥炭の火を起こした。「わたしたちと夕食を食べましょう。おなかが空いているでしょう。今日の食べ物は……」彼女は言葉を中断してぼくに向かって言った。「日曜日のご馳走に取ってあるライチョウをローストしましょう。それがいい。ライチョウにポテトにバターにバターミルクに薄焼きケーキ、ご馳走だわ、ほんと! ご馳走!彼女は次に行商人に向かって聞いた。
「あなた、いっぱい食べられる?」
「はい、奥様、なんでも食べます。」
「それではご馳走しましょう。日曜日なんてどうでもいいわ。」
祖母は腕まくりをしてテーブルの支度を始めた。行商人は箱を閉じて部屋の隅に行った。そこの闇に男が消えたように見えた。祖母は炊事をしながら話しかけた。
「ねえ、あなたの名前はなんて言うの?」
「シンハです。」
「なんですって?」
「シンハです。」
「まあ、変な名前ね。シング、シング」彼女はその名前を舌で味わうように繰り返した。「いい? これからわたしがあなたに名前をつけてあげるわ。『ミスター・シング、わが心の喜び』としましょう。そう、それがいいわ。すてきな長い名前でしょう?『ミスター・シング、わが心の喜び』」
「はい」男は従順に返事した。
「さあ、ミスター・シング、わが心の喜び、一時間だけ眠って下さい。一時間経(た)って起きたら目の前にご馳走とフェスティバルがありますよ。さあ、目を閉じて眠りなさい。可哀そうな、やつれた人よ。」
彼はおとなしく目を閉じ、五分も経たないうちに頭を垂れた。
祖母がテーブルの端、ぼくが真ん中、行商人が上座に座ってオイルランプの明かりで食事をした。彼は満足な食事は一ヶ月ぶりだったに違いない。ガツガツと呑み込むように食べ、皿がきれいになるまで顔をあげなかった。食べ終わると椅子に座り直し、初めてぼくたちに向かってニッコリ笑った。満足した彼は少年っぽく見えた。
「有り難うございます、奥様。すーばーらーしいい食事でした。」
「どう致しまして。わたしたちみんなが食べ物に困りませんように」そう祈りながら祖母はライチョウの骨を指に挟み、頭を一方に傾(かし)げて皿の上に模様を描いた。
「出身は? ミスター・シング、わが心の喜びさん。」
祖母の口調はこれから質問ぜめにするわよ、という暗示だった。
「パンジャーブです。」
「どこかしら。」
「インドです、奥様。」
「インドね。インドって暑い国でしょう?」
「暑いです。そしてとても貧しい。」
「とても貧しい?」祖母は静かに繰り返し、心の中で作り上げているインドのイメージに「貧困」と描き加えた。「インドではオレンジとかバナナとかが木になるんでしょう? 虹色のあらゆる種類の果物とか花もね。」
「はい」行商人は簡単に答えた。心の中で自分の国を思い出していたのだ。「とてもうーつーくーしいです、奥様。」
「女の人たちは地面まで届く絹の服を着ているのでしょう? 男の人たちはワイン色のビロードの服に金のバックルのついた黒い靴をはいているのでしょう?」
男は両手を広げてニッコリした。
「女の人たちはオレンジの木の下を日を浴びながら散歩してる。お日様は女の人の髪から光を受け、粋(いき)な男の人たちは羽飾りのついた帽子を取って女の人に道を譲る……太陽を浴びて……パンジャーブでは……エデンの園では……」
祖母は別の国にいる。ぼくたちは隙間風の入る石を敷いた台所で、下の太平洋を荒波にし、藁葺(わらぶ)き屋根のもろい箇所を吹き飛ばそうとしている風の音に聞き入っている。行商人は目を閉じてうなずいた。
「エデンの園では気紛れに流れる小川とか草も生えない岩地はない。パンジャーブではお日様が燦々(さんさん)と射して、歌と楽器と子供たちと……そうだわ、子供たち……」
そのとき驟雨(しゅうう)の最初の雨滴が煙突から入って、火の上でしゅーと音を立てた。
「あら、たいへん!」祖母は立ち上がった。「あんたたちはなんて間抜けなの! さあ、立って! 台所を片付けなくては。」
行商人ははっとして目を覚まし、箱を取りに行った。
「どこへ行くの? あなた、こんな晩はアナグマだって出歩かないわよ。」
彼は部屋の真ん中で足を止めた。
「何してるの? わたしに叩かれるとでも思うの? 今夜はここに寝るのよ。暖炉の前で、猫のように」祖母はそう言ってから笑った。
行商人も笑った。
「さあ、ミスター・シング、わたしとこの子が片づけるまでどいていてね。」
食器を片づけ、翌朝の泥炭を火の前に並べ終えると、もう寝る時間だった。祖母とぼくは隅のベッドで一緒に寝た。大きな鉄のベッドは側面が暖炉の熱でいつも暖かだった。祖母が壁際に、ぼくが反対側に寝た。ぼくと祖母は部屋の暗い隅に行って服を脱いだ。それから行商人にきまりわるい思いをさせる前に、急いで二人でベッドに飛び込んだ。
祖母はぼく越しに彼を見た。「ランプを吹き消してね。床に横になるといいわ。マットが欲しかったらドアのところにあるわよ。」
「おやすみなさい、奥様。」
「おやすみ、ミスター・シング、わが心の喜び。」
彼はマットを持ってきて、赤と白の斑(まだら)の残り火の前に体を横たえた。外では雨が激しく屋根を打っていた。家の中ではペットの雌鳥のようにぼくたちはぬくぬくと眠った。
素晴らしい朝が来た。さわやかな風が雲を追い、家から街道へ通じる道は乾いていた。行商人は元気になって、颯爽(さっそう)と小脇に箱を吊した。彼は、祖母が品物の売れそうな村への道順を教えている間、戸口に立ってうなづきながらにこやかに笑っていた。
「さあ、前途の無事を祈るわ」最後に祖母が言った。
「奥様、払うお金がありません。こんな安物を差し上げるわけには……」 「さあ、行きなさい。お昼前には雨が降るでしょう。それまでには8マイルは行けるでしょう。」
彼はまだもじもじしていた。内気な少女のように微笑したり、頭を下げたり、箱を振ったりしていた。
「何してるの! 早く行かないとお昼御飯を出さなくてはいけなくなるでしょう。あなたはそれを昨晩食べちゃったのよ。」
行商人は箱を地面に置いて、左手を見た。それから長い繊細な指で指輪を抜いて祖母に差し出した。「あなたに差し上げます」彼は改まった声で言った。「お礼に……受け取って下さい。」
手の中で宝石が虹色に輝いた。祖母は困ったような顔をした。永いこと人からプレゼントを貰ったことがなかったので、どう受け取っていいのか分からなかったのだろう。彼女は首を傾げてぶっきらぼうに「だめ、だめ」と呟き、後ろに下がった。
「そんなこと言わずに受け取って下さい、奥様。」彼は強引に言った。「パンジャーブの紳士からドニゴールの淑女への贈物です。」
彼女が後ろに下がったままなので、彼は進み出て祖母の手を取った。左手の中指を選び、指輪をはめた。「有り難うございました、奥様。」
それから彼は箱を持ち上げると、お辞儀をして荒野と街道のほうに向かった。追い風が彼をどんどん進ませた。
道の曲がり角の小丘の背後に彼の姿が見えなくなるまで、ぼくたちは身動きもせずに見送った。ぼくは家の脇に回り込んだ。雌鳥を外に出して、牛のミルクを絞る時刻だった。しかし祖母は動かなかった。行商人が指輪をはめたときの姿勢のまま道のほうを見ていた。
「さあ、おばあちゃん、ぼくたちが死んじゃったと牛が思うよ。」ぼくはいらだっていた。
祖母は変な目でぼくを見て、それから泥炭地や道、そのさらに向こうの周囲をとりかこむ山並みを見上げた。
「さあ、おばあちゃん、急いで、急いで。」ぼくは祖母の仕事着を引いた。
彼女は引っ張られるままについてきた。牛小屋のほうに連れていく途中、彼女は独り言のように呟いていた。
「クロリー橋に着かないうちに雨に降られるかしらね。ワイン色のズボンとバックル付きの靴が台無しでしょう。どうか雨が降りませんように、神様どうか……」
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